台風10号がやっと、九州を横断し終えたらしい。
この間、ずっと体調が悪かった。読書会もまともに開けていない。
メンバーに申し訳ないなぁと思いながら横になっていた。
それぐらいだな。今週は台風のせいで特に外出もしていない。
書くことがない。
今日のToday’s reViewはこんなですみません。
2024/08/30 寝起きのだるさの残る夕刻。
台風10号がやっと、九州を横断し終えたらしい。
この間、ずっと体調が悪かった。読書会もまともに開けていない。
メンバーに申し訳ないなぁと思いながら横になっていた。
それぐらいだな。今週は台風のせいで特に外出もしていない。
書くことがない。
今日のToday’s reViewはこんなですみません。
2024/08/30 寝起きのだるさの残る夕刻。
今日は原爆の絵を描いているという高校生と出会った。
被爆者から証言を聞き、それを基に絵を描くという取り組みをしている。
そんな彼女らから今日は貴重すぎる話が聞けた。
どういう話を聞いたかは僕に直接聞いてもらうとして、やはり彼女らも出会いによってその道が与えられ、筆をとったことが分かった。
出会いによって過去の意味付けが変わっていく。
特にいい方向に行けば、それは希望になる。
今日の出会いによって僕はそう感じた。
原爆ドームにも立ち寄る時間があった。
10年ぶりに訪れる原爆ドームは、大きくなった僕にはすこし小さく見えた。
英語で外国人に証言をしている被爆者(surviverと書いてあったので)もいた。
お互いに一生懸命、語り、聞いている姿にも僕は希望を感じた。
みんなが、傷ついた人々に耳を傾ければ世界はやさしくなるはずだ。
前の記事で書きそびれたが昨日、平和記念資料館を離れるとき、しゃがんで話し込んでいる3-4歳ぐらいの男の子と両親らしき3人組がいた。
何を話していたかは知らない。だが、20分ぐらいは話していた様子だった。
ああいう、大切にされた経験が平和を創り出す原動力だと思う。
くどいかもだが、”愛された人は、愛する人になれる”
僕は何度も愚直にそう言い続ける。
いい旅だった。
2024/08/26 瞼が重い、旅で疲れた夜。
広島に来ている。ホテルでこの記事は書いている。
子ども劇場という団体の旅で来ている。
今日も出会いに満ちていた。感謝感激雨アラレ。
いや、2か月前に面接授業で広島に行ったじゃねぇか。
まあまあ。
朝は小倉駅まで車で送ってもらった。
集合時刻まで時間があったのでケンタでまっずいコーヒーをすすった。そもそもケンタでコーヒーを頼んだ私が間違えだった。
定刻となりバスに乗って出発した。
道中は普通の高速の道だった。
広島平和公園についた。
「過ちは繰り返しませぬから」の石碑も見て、原爆の子の像に祈り、平和記念資料館に向かった。
私が最初に広島の平和記念資料館に行ったのは確か、10歳の時だったと思う。11年前だ。その時はまだリニューアル前で、怖いと思ってしまう展示だった。
その後、様々な議論を経て今の展示になったと報道で聞いた。
「お化け屋敷にはしたくない」そうテレビの向こうでは被爆者は言っていた気がする。
さすがに前の展示内容は覚えていないが、今の展示は被爆者個人の”思い”に焦点を当てていたと思う。数字でもマクロ的視点でもなく人間>が<人間>に「原子力爆弾」という殺りく兵器を使った事実がそこには表現されていたと思う。
私はまごうことなき北九州市民だ。当然、北九州が長崎原爆の第一目標だったことも知っている。
今日はいかにして、広島と長崎に原爆が落とされたのかを確認できたものよかった。
原爆を落とした人たちが、人間をどうやったら多く殺せるかを計算して広島と小倉に落とそうとしたのかも確認出来て、人間の業と罪の深さをまた知った。
今回は初めて追悼平和祈念館にも行けた。
あ行だけでも液晶いっぱいに亡くなられた被爆者の方の遺影と名前が映し出されていた。これが事実なのだ。
核兵器はなにもかもを破壊する。
だから破壊されずに残ったものを私たちは大切にしなければならない。
「歴史の教訓を学ばない民族は、滅びの道を歩むしかない」-by 林えいだい
明日の出会いと学びに期待しつつ今日は寝るとする。
2024/08/25 日付をまたいだ深夜。
今日は「クリスチャンになる理由」を問われた。
僕は「義務感」と答えたが、数時間たった今「使命感」「召命感」みたいなものだった気がする。
ルカ福音書2章ではイエスの降誕の場面でイエスの福音は、”すべての民”に与えれれたものとされている。
だから、クリスチャンになろうがなるまいがイエスは必要だし、十字架は必要だし、贖いは必要だと思う。
だが、そうなるとバプテスマは必要ないのだろうか?
だが、バプテスマは決心だと思う。特に東八幡教会のバプテスマは世界の一番低みに身を置き続ける決心であると思う。
この上記のアンダーラインのところが重要で、もし世界中の人々がこうなったら多分戦争はなくなる。
そのために福音伝道が必要で、その自覚の一つの表し方がバプテスマなのだと思う。
答えは無いが。
そういえば、去年の夏も似たようなことを言われた。
「万民救済だったら教会いらないじゃん」
いやいや、万民救済に気づいていない人がいるから伝道する。そのための体として教会があるんでしょ。と、今なら返せる気がする。
くどいが「救わている真実に気づいた人は、救われている真実を伝える人になれる」
これが、僕の福音伝道の意義であると思う。
2024/08/18 日付をまたぐ50分前の夜。
水曜日、僕の恩師というか師匠というか先生に窘められた。
内容は理論ばっかやってても意味無いよ、的な趣旨の発言をされた。
僕の実践と理論の考えは、あえて二項対立にするものではない気がする。
最初の実践→(非言語的経験化)→理論的構築化→言語化→外部化
つまり、先人の実践は理論的構築化を経て言語化されて外部化(文書でも口伝でも)ができ得るのだと思う。
実践あっての理論、理論あっての実践というか、そこには実践という営みと理論という営みには強く結びついた相互作用関係があると思う。
要は本を読むと他人の経験がわかるよねって話。
数日前の話だけど、今日のToday’s reViewってことでオナシャス。
2024/08/18 日付が変わって間もなくのころ。
朝起きて、飯食って、二度寝して、バス乗って教会行った。
イベントの準備をした。
それと、一昨日までの旅の話をいろいろした。
僕の旅路を幾人もが先を歩いていた。
備えられた道なんだろうな。
家の帰りの電車は人が多かった。
近所で花火が上がっていたそうな。
それを見に行ったんだな。
そして、帰ってきて、このサイトをいじってた。
紆余曲折を経て、結局Wordpressで作ることになった。
そして、しばらくしたら寝ます。
おやすみなさい。
2024/08/13 花火の音が止んだ夜。
「文字を書け・汗をかけ・恥をかけ」
僕の尊敬する人が教えてくれた若いころにしておくことです。
僕は僕がこの世にいた証明がしたい。
よく僕は、「君って抜きん出たいと思ってるよね」とか「向上心があるよね」とか言われる。
そう、僕の周りのような、大きな大人になりたい。
その練習の一つとして、この僕の”広い世界観 – The wide world view”をこのサイトで伝えていく。