私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。
新約聖書 ローマ人への手紙7章15節 聖書協会共同訳
自分のすべきことがわからなさすぎる。
そりゃ、大学の勉強とか、TOEICの勉強とか、そもそも体力もないし、血液検査の数値もまずい。
毎回、内科に行くと「もうちょっと絞りましょうね」と、言われる。
自分のためにすべきことも分かっている。
母は同じ年代の方に比べたら元気ではない。私が免許を取れば、どこにでも連れて行ってあげられるのに今年も免許が取れなかった。
献金だって満足にできていない。昨日はモスバーガーに行ってしまった。とんでもない罪人だ。
なんでもいいから働くべきなんだろう。
他人のためにすべきこともたくさんある。
自分の自分嫌いが最近進んでいる。
なのに頑張れるのは周りの人が優しいからだ。
この記事は今日の9時のNHKのニュースを見て書こうと思った。
もっと言えば、今日の祈祷会で被団協のことについて言及があったからだ。
「北九州に住む人は、原爆の当事者だ」
1945年8月9日、長崎に落ちた原爆は北九州市(当時は小倉市か、、、)に落ちる予定だった。
ファーストターゲットは今私が住んでいる”まち”だったのだ。
私は北九州市民として、今の総理・衆参両議長に核兵器禁止条約の批准を求める請願署名を明日からでも駅前ですべきだと思った。
今日思ったすべきことの一つはそれだ。
核兵器をこの世界からなくすべき理由はこれまでの21年間で身にしみるほどわかった。
小学生3~6年間の8月9日は必ず長崎爆心地で迎えたし、この10年で広島にも沖縄にも行った。
僕のすべきことは十分わかっている。あとはするだけだってわかっている。
イエスもあなたも行って同じようにしろと言っている。
なのにどうしてこうも、自分だけが空振りしているような寂しさに襲われるのだろうか。
「そんなどうでもいいことよりも、働いたら?私だってやりたいこと我慢して働いてるんだから」
最近、僕の支援者に言われた言葉だ。僕のしていることはそんなにどうでもいいことなのだろうか。
もちろん、無賃だから金にはならない。
金にならないことは、働くことにくらべて無駄なのだろうか。
わからない。わからないことが多すぎる。
おとなしく池上彰の本でも読んで、来月から真面目にバイトするのが大学生として正当でまっとうな道だとは思う。
でも、仮にバイトを始めてファストフード店で他人を太らせることが僕の今やるべきことなのだろうか。
スーパーで添加物を売って、資本主義に加担することが僕の今やるべきことなのだろうか。
コンビニで自分では吸わないたばこの銘柄を覚えて売って不健康な人を増やすことが僕の今やるべきことなのだろうか。
もちろん、今働いている人を否定する意図はない。今僕はスーパードライを飲んでいるし、今日はMAXコーヒーをスーパーで買った。
働いてサプライチェーンを維持している人がいるおかげで僕は不自由なく働いている。
父親も働いているし、すでに体調の悪かった母親を無理やり働かせて買ってもらったものも多くある。
ああああ、ますます自分が嫌いになる。
なんで神様はこんな自分を生かしているんだろう。
本当にわからない。
「働かないとは悪いことか」で検索すると、みんな大好き西村博之のインタビュー記事が見つかった。
(ちなみに1%の努力は持っている。しかも珍しく積読ではない。)
まあ、ひろゆきは若いころ、不労収入を作ろうと思って人生を歩み、その通りになっている人だ。
その上、自分中心だ。イエス・キリストとは真逆の立場にいる人だ。
僕はひろゆきを全否定する立場でもなければ全肯定する立場でもない。
批判すべきところも多くあるし、学ぶべきところも多くある。
また、20世紀のテーマの一つであった公共性と親密性の二項対立、そこから脱却する思想を持っている一人でもあると思う。
(一人でもっていうのは、アプローチは違うが、奥田知志もその方向だし、見田宗介もその方向を探っていた一人だと思う。)
。。。風呂敷を広げすぎて話が拡散し始めたな。
でで、その9時のNHKのニュースで被団協のニュースのあと、元大阪地検検事正が性的暴行で訴えられた裁判のニュースがあった。
今日、Today re’Viewを残さねばと思ったのは、その被害者が会見している映像を見たからだ。
嗚咽を抑えながら必死に伝えようとしている姿は筆舌に尽くしがたい。
かくいう僕も今年、セクハラに近い状況に遭った。
同世代の仲間と夜、アルコールの入った後にカラオケに行こうという話になった。その中に明らかに同世代ではない方がおられた。とある曲をその方が歌われるときに、その曲がわかるのが同性代の中で僕だけだったので一緒に前に出て歌った。
サビに入ったとき、抱きつかれて相手の下腹部を僕の背中側に押し当てられた。
その時は抵抗しなかった。場の空気を壊すと思ったからだ。でも、年下の女の子がその場にいたが、彼女の目をほかの人が覆い隠していた。
ああ、なんかニュースの女性検事の気持ちが、種類も重さも違うだろうが、よくわかった。
でも、そのカラオケの事を僕はあんまり相談していない。
カラオケの翌日に、まったく別の同世代の知り合いに相談したが「それは無礼講だよ」と言われた。
そもそも僕だって性加害の経験がないわけではない。
僕が性被害を主張する資格はないし、相手や場に合わせた人を裁く権利はない。
ただ、誤解のないように言っておくが、性被害を受けた人はどんな些細なことでも相談してほしい。できれば専門知識を持った信頼できる人にだ。
そろそろ、締めようか。
今年知ったことの一つに、被団協の正式名称のことがある。
被団協の正式名称は「日本原水爆被害者団体協議会」だ。
てっきり最近まで、”被ばく者団体協議会”だと思っていた。
なんでかは、直接関わる人がいたら聞いてみたいところだが、僕が思うに被ばく者に限定されない被害者がいるのではないか、という考えのもとだと思う。
先日、子ども劇場の会員と日本の被害性(無差別爆撃・沖縄戦・ヒロシマ・ナガサキ)と加害性(アジアへの進駐・民族差別・戦後賠償)の両方を思考の俎上(そじょう)に乗せなければ、本当の意味での”平和”は語れないのではないかと話した。
その会員は731部隊について教えてくれた。調べてみようと思う。
僕はこの記事を書いたら自分のす”べき”ことがわかるかな、と思ったが、なおさらわからなくなった。
今日は少しゲームして寝ようと思う。明日も教会で仕事だ。
僕はまだすべきことがたくさんある。
まだまだ死ねない。
2024/12/11 人生の中の一日の夜。