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『死の床についた時、』2025/1/18

最近、気になっている思想家が2人いる。いや、2人とは言わず結構いる。

でも、まあ今日は2人にしておこう。

誰かというと、ディートリッヒ・ボンヘッファーとヴァルター・ベンヤミンだ。

ボンヘッファーはナチス・ドイツ期に生きた、神学者・牧師で最終的にはヒトラー暗殺計画に加担し、ナチスの強制収容所で生涯を終えた。

ベンヤミンも同時期の哲学者・文芸批評家でユダヤ人家庭に生まれる。しかしその後、亡命に失敗し、ピレネー山脈の山小屋で自ら命を絶ち、生涯を終えた。

生前、2人が交わったかどうかはまだ私は調べられていない。けれども、(というか2人が有名だからか)彼らがどういう思いでこの世を去ったのか、タイトル通り、「死の床についた時、世界はどう見えていたか」が気になる。

ベンヤミンはこういう言葉を残している。

夜の中を歩みとおすとき助けになるのは、橋でも翼でもない、友の足音だ、ということを、私は身にしみて経験している。私たちは夜のただ中にいる。夜に抗して闘う者は、夜のもっとも深い闇を動かさなければならない、まさに夜そのものの光を手渡すために。

だけれども、ベンヤミンがモルヒネを手に取ったとき、”友の足音”は聞こえなかったのだろうか。

最新の研究では自殺説も否定されているが、その真偽や是非をこの記事では問いたいのではない。

なんであれ、ボンヘッファーもベンヤミンも、その他無名の人々があの時代、20世紀という「戦争の時代」に殺されたのだ。

ボンヘッファーも、キリスト教的には本来犯してはならない、「他殺」を犯してでも、ヒトラーの独裁を止めようとした。
その矛盾は今でも考えさせられる。

多分、彼らが殺されたころは寒かったのだろう。
今日の北九州と同じぐらい。
だから、気になる。
どう、彼らが希望を抱き、最後まで筆を止めなかったのか。

、、、なんか書いてて適当なこと言えないなと思った。
でも、勉強する動機がまた増えた。

2025/01/18 金曜と土曜の境を過ぎたころ。

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『革命家になりたい?なりたかった?』2025/1/10

小学校の卒アルの”将来の夢”欄にに「革命家になりたい」と書きたかった。

当時、ガンダム THE ORIGIN(劇場版)の1作目とか2作目とかガンダムUCとかを見ていた。
宇宙に出て人間の住環境を拡張すれば、新しい環境に適応した新しいタイプの人類が、「ニュータイプ」が出てくる。
その「ニュータイプ」が太陽系のリーダーとしてまた、住環境を拡大していくという思想、”ジオニズム”に憧れていた。

だが、「革命家になりたい」という夢は「反社会的」と教師に言われ、「人々の生活を良くするプログラマーになりたい」と書き換えた。
”人々の生活を良くする”プログラマーとは、革命家の具体度を上げた例で、その本質は変えていないつもりだった。

それから10年近く経つ今、改めて私は何者になりたいのだろうか。

やはり、僕の目標を抽象度高めで説明すると、やはり「革命家」だなと思う。
先見の明と言うと言いすぎかもだが、斎藤幸平のようなマルクス研究者が脚光を浴びたり、成田悠輔のような、テクノロジーで民主主義の機能を補完しようみたいな動きがあったりと、割と僕と同じ考えの人が世の中にはいるんだなとここ数年思っている。

そして、何よりもイエスと教会との出会い。
十字架の贖いの福音との出会い。
絶対的な他者の必要性があるとの確信。
他のにもいろんな出会いと経験が12歳の時の僕に比べて今の僕には与えられている。

今日の記事は結論が出ないな。
ま、いっか。

2025/01/10 金曜日の昼下がり。

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『謹賀新年』Today’s reView – 2025/1/4

あけましておめでとうございます。
正月から英英辞典と和英対訳聖書を買っていい気になっている男子大学生が、新年一発目のToday’s reViewをお送りいたします。

とは言え、今日書くことはあんましないと思います。
なんせ、さっきの二つ+4冊の文庫・新書・選書を買ったんでまずは、それを消化したいです。

本年も世界中の人々が絆で結ばれますように。

2025/01/04 クリプレのスピーカーを試しながら。

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『X目に僕の嫌いなところ』 – 2024/12/29

僕は資本に生かされているのが嫌いだ。
父親は某電力会社社員だ。玄海と川内を日常的に危険にさらして、庶民から電気代を巻き上げたうえで日々食っている。
その搾取の構造の中腹で暮らしているのがたまにつらくなる。

教会には様々な人が来る。重力の光なんかを見てもらえれば分かると思うが、元ヤクザ・元ホームレス・虐待被害者・難病患者などなど。
社会の歪みによって疎外(よそよそしさを強いられている)されている人々が来る。
彼ら彼女らと接していると自分の傲慢さに、自分の甘さに、自分の驕りに憤ることがよくある。

一度、自分の傲慢さに悲しくなった出来事がある。
虐待を受けて育ち、今なお、体にも心にも大きな傷を抱えながら生きている年上の女性の方と会話していた時のことだ。

僕「毎日風呂とか部屋で歌ってる」
彼女「隣からクレームくるやろ。一軒家なん?」
僕「・・・まあ」

僕は彼女の前で自分が一軒家に住んでいることに対し後ろめたさを持っていた。
もちろん、彼女も一軒家に住んでいる可能性もあった。
だけど、僕は偏見で”彼女は一軒家に住んでいない”・”彼女は僕の家みたいに温かく育てられたわけではない”という結論が先行し、答えにつまった。
僕の差別心の発露の瞬間であったと思う。


と、言うのも僕のやっている活動は金持ちの坊っちゃんの”趣味”でしかないのかもしれないと不安になる。
というか、講演会とか芝居を見るとか礼拝に行くとか、全部今日も明日も食べるのに困らない人がやることだ。(いや礼拝は違うかもだが、、、)

搾取の中腹であたかも善人のようにふるまっているのがものすごくイライラする。
なんでみんな他者のために動こうとしないのか。
環境の合う人同士で内輪のノリでお勉強したって社会良くなるの?世界は癒されるの?

結論はわからない。
もしかしたら、今やっている活動を続けていけば1万と2千年後ぐらいにはいい社会が来ているかもしれない。

わからない。
わかならないことが多すぎる。

2024/12/29 礼拝には行かない日曜の朝。

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『あの夏の絵ー他者性の必要性』 – 2024/12/4


私は「北九州子ども劇場」というNPO法人の会員だ。
子ども劇場(地域によっては親子劇場と呼ばれるらしい)は、会費を支払らい定期的に会で劇団・音楽グループ・芸能グループなどを呼び、舞台鑑賞会(通称・例会)をする団体だ。

戦後の福岡市の貝塚団地で発祥し、今や全国に存在している、いわば、”文化芸術の協同組合”だ。

今回の記事はその子ども劇場の12月例会で観た、青年劇場の「あの夏の絵」という作品について書き残しておこうと思う。

とりあえず青年劇場のHPから、あらすじをコピペ。

広島市にある私立海陵学園高等部。
美術部員のメグミは祖父母が入市被爆をしている被爆三世。顧問の岡田が持ち込んだ「被爆証言を聞いて絵に描く」取り組みに、迷いながらも参加することを決める。
東京から引っ越してきた同じ美術部員のナナは友達よりも絵を描くことが大好きで、漫研と兼部しているアツトが気に入らない。
岡田の提案で被爆証言は三人で聞くことになり、証言者・白井の話を聞いて心を突き動かされる三人だが、ある日ナナが学校に来なくなって…。

青年劇場「あの夏の絵」HPより

このお芝居は、広島平和記念資料館の「次世代と描く原爆の絵」事業に参加している、広島市立基町高等学校の創造表現コース有志生徒たちをモデルとしている。
「次世代と描く原爆の絵」事業について

以前のToday’s reViewで広島に滞在している、と書いていたがこれは、今回の例会の事前学習として子ども劇場が企画したものだった。
(こういう例会の事前事後の取り組みにも積極的にやるのが子ども劇場のいいところだと思っている。)

reViewでも書いたとおり、この時、基町高校の高校生と交流した。
彼女たちから聞いたのは、原爆の現実と対峙することを”日常化”する生活だった。

しかし、彼女たちはそれを強いられたのではない。望んで対峙することを選んだのだ。
余暇で平和のことを考えているのではない。しかも、被ばくした当事者とも対峙している。生身の人間を巻き込んで創作にあたっている。逃げ出すことは簡単にはできない。

実際、私は(逆に)余暇はどうしているのかを僭越ながら質問させてもらった。

「余暇はなかった」
1人はそう答えた。そうだろう。土日も削り制作にあったている。平日は授業があり、放課後はやはり制作だ。
寝ていても夢に8月6日の広島の光景が出てくる時もあるだろう。休みも遊びも、あったとしても彼女たちの”日常”には意味をなさないかもしれない。

「本を読む」
そう答えた生徒もいた。本を読むことで自分と他者(この場合は本の著者や作者)を相対化し、自分のやっていることに妥当性を見出そうとしているのかもしれない。
「自分は絵が描ける」のだと。

「政治の選択肢を提示する」ことを目的というか、原動力として考えている生徒もいた。
平和を選べるように広島の現実を絵で示すのだと。
彼女は私の妹と同じ、17歳だった。
彼女はとても信念に燃えていた。若さゆえのその炎だと思うが、私はそれに一番共感した。

10代のころに灯った炎は当分燃え続ける。
少なくとも私はまだ燃えている。

そういう意味でも青年劇場がこの題材を取り上げた意味は大いにあったと思う。
青年劇場は「青いドクドク感」を描くには、日本で第1級の技術を持っていると思う。
商業演劇の劇団でも太刀打ちできないぐらいにだ。

今回の「あの夏の絵」の登場人物は次の通りだ。

主人公の”メグミ”は被爆三世だ。だが、祖父母から8月6日の話を聞いたことがない。
祖父が死んだとき、そのことを聞いていなかったことを悔やんでいる。

同じ、美術部員の”ナナ”は東京からの転校生で原爆についてほとんど知らない。物語が始まるまで原爆を落としたのはヒトラーだと思っていたようだ。

もう一人の美術部員のアツトは父が自衛官だ。
2015年に成立した安保法制で父が戦地に行かされるかもと心配している。

被爆者で証言者の”白井”は8月6日8時15分は広島市外にいた。その後、広島市内に戻ったたため、入市被ばく者だ。

その他にも、メグミの祖母で被ばく者の”おばあちゃん”や美術部顧問の”岡田先生”が登場する。

この作品のテーマはずばり、

「こんなにも知らなかった
ということを初めて知った」

ソクラテス大先生にあやかれば、「無知の知」という言葉が出てくるかもしれない。

「汝、知らんとすることを知る」

だからやっぱり、ここでも他者性が必要なのだ。
今回の作品で言えば、世代も受けてきた体験も全然違う、被ばく者と非被ばく者の高校生が、全人格的に対峙する。

知らないということに対しては、知るでしか根本的な解決はできない。(知らないことを否定している訳ではないが)

自分の知らないことは他者から聞く・教わるしかない。
そこに<異化(驚き)>と<同化(共感)>が生まれ、他者を内面化(自分の心に住まわせる)していくのだ。

もう一つ言うと、原爆の絵に携わる彼ら彼女らは、絵を描く理由を外部に持った。

私も作詞作曲するのでよくわかるが(わかった気になって困るが)、創作する理由を自分の内部に持つと、自分が崩れたときにその理由も一緒に崩れる。
創作”したい”では、”したくない”や”飽き”がくる。
しかし、創作”すべき”やこの人のために”する”であれば、少なくとも”したい”よりかは、理由が崩れにくい。

だから実際、基町高校では途中で原爆の絵を描くことをやめた生徒は、事業が始まって以来、一人もいないそうだ。

そろそろ、締めようか。

やっぱり、希望は一人では生まれないと思う。
人間同士が全人格的に重なり合った先に、面となった未来が綿々と続くのだと思う。

2024/12/04 そろそろお腹がすいたころ。

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note更新– 2024/11/13

#希望のまちをあきらめない

希望のまちについて思いのたけを綴りました。
ぜひ見てください。

2024/11/13 おなかのすいた昼下がり。

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『最近、、、』Today’s reView – 2024/11/13


全国津々浦々のみなさん。
お久しぶりです。

最近は鬱で寝込んでました。
今期は面接授業を2科目ほど申請していたのですが、片方は抱樸のイベントと被り、もう片方は鬱で寝込んでました。

鬱とは、、、

「鬱」という言葉は、一般的に「うつ病」を指すことが多く、気分が落ち込み、意欲が低下し、日常生活に支障が出るような状態を指します。

Google Gemini に「鬱とはなんですか?」で聞いてみた結果

僕には気分にレベルがある気がする。
ここでは6段階にわけてみる。

ハイ
普通
センチ
ブルー

こんな具合ではないだろうか。

たまに夜寝ないと、絶好調にハイになって、余計なことを考えて大失敗する。夜は寝ることだね。

そういえば今、放送大学は通信指導の時期なのでそれもしないといけないんだよね~。

明日は勉強デーにしよう。

2024/11/13 親友の生配信を裏で聞きつつ。

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『やっぱり仲間が必要だ。』Today’s reView – 2024/10/9

今日は3週ぶりの読書会をした。
参加者は僕ともう1人だけ。2人だけだ。

僕が頼れる人。しかも対等に頼れる人は何人いるだろう。
数えるぐらいだな。

仲間は質だろうか、量だろうか。
うちの先生なら迷いなく量と答えるだろう。
「ちょい友を増やしな」
出会ったときそう言われたのを覚えている。

だからこれからもちょい仲間を増やしていきたいと思っている。
僕に興味がある人は遠慮なくContactから連絡してください。

―――――――――――――――――――――――――――――

そろそろ、OthersCommunityを整備しようと思う。

どちらも放送大学関係者限定にしようと思う。(とは言え放大の学生は全科だけでも6万人いる)

1つはすでにやっている読書会。
単発の文庫新書中心のゆるふわ読書会と単行本・学術書中心の輪読会の両輪で試してみようと思う。

もう1つは自主研究会をやろうと思う。
ズバリ、「放送大学教養研究学生会」。
ああ、なんかまた空中分解しそうな名前だな。
要は同好会で叶わなかった自主ゼミをやろうというやつだ。

前者も後者も詳細は、私のXCommunityでお知らせするが、いち早く知りたい方はContactに連絡ください。

僕今多分、躁だ。深夜テンションで舞いがっているに違いない。
もう寝よう。

2024/10/06 ネムイ。

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『やっぱり神様が必要だ。』Today’s reView – 2024/10/6

「現場の実践を常に神学的”抽象化”していくべきだ」(意訳)

僕は2つ目の高校をやめて間もないころに今の教会に通い始めた。
今、振り返るとまだまだ若かったなと思う。
今と変わったところと変わっていないところ両方あると思う。

変わっていないところは自己中なところと、壮大なことが好きなところかな。

変わったところは、無宗教の有神論じゃからキリスト教の有神論者に変わったところだと思う。
てか、毎週「お前が神様を殺しているんだ。だけどお前を愛しているんだ。」と言われたら嫌でも改宗しちゃう気がする。

僕の父は「お前は絶対に宗教にハマる」と言っていた。
予言というべきか預言というべきか。

僕は生きる目的を教える経典を読むようになったし、教えを共有する仲間も与えられた。

新たな出会いもたくさんもらったし、その人たちがくれた新たな視座も今はある。

冒頭の言葉は、その教会の先生が恩師からもらった言葉だ。

僕はこの言葉は妙に納得する。

今日(もう昨日だが)、有名なシンガーソングライターの方が教会に来た。
この方は歌手であると同時にハンセン病の音楽文化を研究されている方だ。
僕はこの二つの営為は何に立脚しているのかまた、どういう相互性があるのか。これが今回気になっていた。

今日の出会いと冒頭の言葉で少しわかった気がする。
あの方にとって、歌を歌うのは抽象化で研究は言葉化なのだと。

明日(今日)は特別礼拝。うちの先生がコンサートを受けてどんな話をするのか楽しみだ。お二人の対談もあるらしい。

僕は抽象化も言葉化もどっちもできる人間になりたいな。

やりたいことが多すぎて死ぬに死ねない。でも1割できればいい方。できれば3割。大谷選手の打率も3割。

希望を胸に今日も寝る。

2024/10/06 もう数時間したら太陽が昇る時間帯の深夜。

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『希望のまち クラファン開始!!』Today’s reView – 2024/09/12

今日のToday’s reViewはFBのコピペです。
今日は午前中、家でパソコン、パチパチしてて、午後は夕方から教会に出かけました。

では、以下さっき投稿したFBのフィード。

2024/09/12 日付の変わった頃合いの深夜。