「現場の実践を常に神学的”抽象化”していくべきだ」(意訳)
僕は2つ目の高校をやめて間もないころに今の教会に通い始めた。
今、振り返るとまだまだ若かったなと思う。
今と変わったところと変わっていないところ両方あると思う。
変わっていないところは自己中なところと、壮大なことが好きなところかな。
変わったところは、無宗教の有神論じゃからキリスト教の有神論者に変わったところだと思う。
てか、毎週「お前が神様を殺しているんだ。だけどお前を愛しているんだ。」と言われたら嫌でも改宗しちゃう気がする。
僕の父は「お前は絶対に宗教にハマる」と言っていた。
予言というべきか預言というべきか。
僕は生きる目的を教える経典を読むようになったし、教えを共有する仲間も与えられた。
新たな出会いもたくさんもらったし、その人たちがくれた新たな視座も今はある。
冒頭の言葉は、その教会の先生が恩師からもらった言葉だ。
僕はこの言葉は妙に納得する。
今日(もう昨日だが)、有名なシンガーソングライターの方が教会に来た。
この方は歌手であると同時にハンセン病の音楽文化を研究されている方だ。
僕はこの二つの営為は何に立脚しているのかまた、どういう相互性があるのか。これが今回気になっていた。
今日の出会いと冒頭の言葉で少しわかった気がする。
あの方にとって、歌を歌うのは抽象化で研究は言葉化なのだと。
明日(今日)は特別礼拝。うちの先生がコンサートを受けてどんな話をするのか楽しみだ。お二人の対談もあるらしい。
僕は抽象化も言葉化もどっちもできる人間になりたいな。
やりたいことが多すぎて死ぬに死ねない。でも1割できればいい方。できれば3割。大谷選手の打率も3割。
希望を胸に今日も寝る。
2024/10/06 もう数時間したら太陽が昇る時間帯の深夜。