ぼくとあなたとトランプさんと石破さんとの違い。 – 考えてることを書き殴った記事。
言いたいこと
こんばんは。
最近、キーボードを叩いてしっかり文を考えることがなかったのでリハビリがてら書きます。
早速、タイトル回収ですが、ぼくとあなたとトランプさんと石破さんとの違いはありません。
ぼくもあなたもトランプさんも石破さんも、てのひらを太陽に透かしてみれば普通に赤い血が流れていることが分かるかと。
なので、トランプさんもゼレンスキーさんもネタニヤフさんも僕もあなたもガザで殺されている子どもたちもウクライナで殺し合いをしている若者も、同じ人間なので一刻も早く戦争をやめた方がいい。
僕は訳の分からないことで誰かが殺されている状況は、もういい。
以上。
以下、蛇足。
蛇足①
僕は信じることが日々、難しくなっていると思う。
裏切られるのが怖いからだ。
期待するから、期待が叶わなかったときに、そのギャップで苦しむ。
だったら、期待しない方が苦しまずに済む。
これはある意味な生存戦略だと思う。
蛇足②
僕は人間は常に帰属に悩んでいると思う。
ここでは再三言われている、家と職場(学校)と地域の空洞化みたいなのは言わない。
言わないが、「居場所」が欲しい、ないし、「居場所」が必要だ、みたいな、言説をよく見かけることに何か説明は必要だと思う。
仮に「成熟した人間は必要とされることを必要とする」というような言説が真であるとき、「必要とされること」を「他者からの協働の要請」と読むのであれば、何かしらの集団に帰属したいという人間の欲求を少し整理しなければならないと思う。
具体的なケースを挙げると、青年がボランティアの現場で協働を要請されること、子どもがヤクザに協働を要請されること、市民が政党組織の政治運動への協働を要請されること、などがある。
ここでこの3つを挙げたのは、どれも所謂「絆」のような、よくわからない抽象的な、しかし麗しいことばで表現できそうな関係性である。
もっと言うと、この3つのケースは主語の人物がソーシャル・キャピタル(社会関係資本)を家族関係・雇用関係ではない形で獲得している。(ヤクザの例はちょっと違うかもだが)
このような団結は団結の外に対して暴力(的影響)を及ぼす可能性はよくよく考えればあり得るし、これまでの歴史の中でもあり得てきた。
「絆」も「ソーシャル・キャピタル」も麗しいだけの概念ではないと思う。
蛇足③
「社会/世界の中で分断が進んでいる」
という、お決まりの言葉がある。聞かない週はない。
ただ、「社会/世界」というものの中で「分断」が進んでいるという感覚はあんまりない。そもそも自己と他者の間は既に境界線があり、「分断」されている。
少なくとも僕は他人の考えていることは全然わからない。必死に相手が発する態度や言葉、状況の中で推察はするが、あくまでも推し量っているだけだ。
移民難民問題も「分断」云々の話に誇張しすぎな気がする。
何歩か後ずさりしてみて、「人々が住んで働くところを移動させている」と観ればもう少し整った説明ができるのではないかと思う。
多分、そこまで政治や宗教的イデオロギーで日本に来ている人はいないと思う。
日本がめちゃくちゃ住みやすくて良い国だから色んな国の人々が来ていて、いい事があったり、トラブルがあったりする話だと思う。
まあトラブルは根深い場合もあるし、相手を追い出すのは簡単だが、追い出した相手が元居た場所に戻れるかどうかは、もう少し考えた方がいいと思う。
結局言いたいこと
毎日、わからないことが増える。
毎日、孤独に苛まれる。
毎日、苦痛を感じるし。
毎日、誤解にさらされる。
申し訳ないけど、僕は多分頭がいい。
が、頭の良さを有効活用できるほど賢くない。
僕は僕の理性について批判的にならないといけないし、判断を保留する”落ち着き”みたいなものもできるようにならないとと思う。
頭が言い分、賢く無さがよくわかる。
もっと鈍感になれればどれほど楽だろうかとつくづく思う。
それでも、僕は生かされている。
トランプさんも生かされている。
あなたも生かされている。
自分に
他者に
自然に
構造に
もう、書ける言葉がなくなってきた。
この文と問いは明日以降の僕に丸投げしたいと思う。
本当に以上。