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『あの夏の絵ー他者性の必要性』 – 2024/12/4


私は「北九州子ども劇場」というNPO法人の会員だ。
子ども劇場(地域によっては親子劇場と呼ばれるらしい)は、会費を支払らい定期的に会で劇団・音楽グループ・芸能グループなどを呼び、舞台鑑賞会(通称・例会)をする団体だ。

戦後の福岡市の貝塚団地で発祥し、今や全国に存在している、いわば、”文化芸術の協同組合”だ。

今回の記事はその子ども劇場の12月例会で観た、青年劇場の「あの夏の絵」という作品について書き残しておこうと思う。

とりあえず青年劇場のHPから、あらすじをコピペ。

広島市にある私立海陵学園高等部。
美術部員のメグミは祖父母が入市被爆をしている被爆三世。顧問の岡田が持ち込んだ「被爆証言を聞いて絵に描く」取り組みに、迷いながらも参加することを決める。
東京から引っ越してきた同じ美術部員のナナは友達よりも絵を描くことが大好きで、漫研と兼部しているアツトが気に入らない。
岡田の提案で被爆証言は三人で聞くことになり、証言者・白井の話を聞いて心を突き動かされる三人だが、ある日ナナが学校に来なくなって…。

青年劇場「あの夏の絵」HPより

このお芝居は、広島平和記念資料館の「次世代と描く原爆の絵」事業に参加している、広島市立基町高等学校の創造表現コース有志生徒たちをモデルとしている。
「次世代と描く原爆の絵」事業について

以前のToday’s reViewで広島に滞在している、と書いていたがこれは、今回の例会の事前学習として子ども劇場が企画したものだった。
(こういう例会の事前事後の取り組みにも積極的にやるのが子ども劇場のいいところだと思っている。)

reViewでも書いたとおり、この時、基町高校の高校生と交流した。
彼女たちから聞いたのは、原爆の現実と対峙することを”日常化”する生活だった。

しかし、彼女たちはそれを強いられたのではない。望んで対峙することを選んだのだ。
余暇で平和のことを考えているのではない。しかも、被ばくした当事者とも対峙している。生身の人間を巻き込んで創作にあたっている。逃げ出すことは簡単にはできない。

実際、私は(逆に)余暇はどうしているのかを僭越ながら質問させてもらった。

「余暇はなかった」
1人はそう答えた。そうだろう。土日も削り制作にあったている。平日は授業があり、放課後はやはり制作だ。
寝ていても夢に8月6日の広島の光景が出てくる時もあるだろう。休みも遊びも、あったとしても彼女たちの”日常”には意味をなさないかもしれない。

「本を読む」
そう答えた生徒もいた。本を読むことで自分と他者(この場合は本の著者や作者)を相対化し、自分のやっていることに妥当性を見出そうとしているのかもしれない。
「自分は絵が描ける」のだと。

「政治の選択肢を提示する」ことを目的というか、原動力として考えている生徒もいた。
平和を選べるように広島の現実を絵で示すのだと。
彼女は私の妹と同じ、17歳だった。
彼女はとても信念に燃えていた。若さゆえのその炎だと思うが、私はそれに一番共感した。

10代のころに灯った炎は当分燃え続ける。
少なくとも私はまだ燃えている。

そういう意味でも青年劇場がこの題材を取り上げた意味は大いにあったと思う。
青年劇場は「青いドクドク感」を描くには、日本で第1級の技術を持っていると思う。
商業演劇の劇団でも太刀打ちできないぐらいにだ。

今回の「あの夏の絵」の登場人物は次の通りだ。

主人公の”メグミ”は被爆三世だ。だが、祖父母から8月6日の話を聞いたことがない。
祖父が死んだとき、そのことを聞いていなかったことを悔やんでいる。

同じ、美術部員の”ナナ”は東京からの転校生で原爆についてほとんど知らない。物語が始まるまで原爆を落としたのはヒトラーだと思っていたようだ。

もう一人の美術部員のアツトは父が自衛官だ。
2015年に成立した安保法制で父が戦地に行かされるかもと心配している。

被爆者で証言者の”白井”は8月6日8時15分は広島市外にいた。その後、広島市内に戻ったたため、入市被ばく者だ。

その他にも、メグミの祖母で被ばく者の”おばあちゃん”や美術部顧問の”岡田先生”が登場する。

この作品のテーマはずばり、

「こんなにも知らなかった
ということを初めて知った」

ソクラテス大先生にあやかれば、「無知の知」という言葉が出てくるかもしれない。

「汝、知らんとすることを知る」

だからやっぱり、ここでも他者性が必要なのだ。
今回の作品で言えば、世代も受けてきた体験も全然違う、被ばく者と非被ばく者の高校生が、全人格的に対峙する。

知らないということに対しては、知るでしか根本的な解決はできない。(知らないことを否定している訳ではないが)

自分の知らないことは他者から聞く・教わるしかない。
そこに<異化(驚き)>と<同化(共感)>が生まれ、他者を内面化(自分の心に住まわせる)していくのだ。

もう一つ言うと、原爆の絵に携わる彼ら彼女らは、絵を描く理由を外部に持った。

私も作詞作曲するのでよくわかるが(わかった気になって困るが)、創作する理由を自分の内部に持つと、自分が崩れたときにその理由も一緒に崩れる。
創作”したい”では、”したくない”や”飽き”がくる。
しかし、創作”すべき”やこの人のために”する”であれば、少なくとも”したい”よりかは、理由が崩れにくい。

だから実際、基町高校では途中で原爆の絵を描くことをやめた生徒は、事業が始まって以来、一人もいないそうだ。

そろそろ、締めようか。

やっぱり、希望は一人では生まれないと思う。
人間同士が全人格的に重なり合った先に、面となった未来が綿々と続くのだと思う。

2024/12/04 そろそろお腹がすいたころ。